十一月

▽私は背広を着てネクタイを締めるときは殆どない。ジヤンパーか、夏ならワイシヤツひとつである。靴もめつたに履かないから、底もさう痛んではをらぬけれど、実に旧式のかたであるらしい。東京にゐる甥たちが私の靴を見て「叔父さんの靴は僕たちの生れた頃だから履き方がうまいね」とひやかされた。年代もお察しがつくといふもの。
▽靴は履くときになつて磨き、脱げばそのまゝ。たまには磨けばよいものを、次の余裕の会合に恵まれない限り放つておく。靴の方でもあきらめたらしく、渋い顔はせず、至つて素直にやはらんだ微笑をしてくれる。生れが違ふよと言はんばかりである。靴ペラはいらず、スポリとかゝとを入れてくれる。楽だがほんたうの履き方はかうではないらしい。あくまで紐を解いてしつかり足を入れてから締め、ギユツ〱と音をさせるのがエチケツトなのか。
▽それでもよくしたもので穴はあいてゐないから、水はしめつて来ない。だからといつてわざと水たまり突進することは敬遠する。自慢にならぬからだ。
▽底に鋲を打つてある。割合と革の音のギユツ〱はせぬが、勇ましい音を石畳の上で響かせる。たしかに鋲を打つてあるぞと変なところで明らかにしてくれる。あんまり石畳が続いたり、豪華なタイルのやうなところでは、この鋲のためにひつくり返つたりする。いゝ図ではないが、これも伴れ添うた縁だから、ときによつてなか〱派手なとこを見せるのである。