六月

未来社から「信濃の民話」といふ本が出た。民話は長い間語り伝へて来た素朴な生活の味がにじみ出ていゐる話である。信濃の民話のなかには、信濃の自然といふものを先づ頭のなかに置かれ、それで特色付けたうるほひが見出されるものが多い。
姨捨山、蛙、狐、ほとゝぎす、猟師の話し、雪女、ものぐさ太郎などたくさん話があるけれど、そのなかで信濃には棲息してゐない鯨のことが出て私はちよつと気がひかれた。それは越後の海にゐた鯨の夫婦が「信州の佐久には小海といふ海があるさうだからそこへいつて暮さうぢやないか」と相談し、千曲川をさかのぼつて来た。川の幅がせまくなると、変る〱体を横にしてのぼつてゆく。すると佐久の畑八といふところへ来たとき「おい、どこへいくのだ」と川の岸辺から声がかゝつた。「小海といふ海がこの先にあるさうだからそこへ行くのだ」「すると相手はゲラ〱笑ふ。「どうしたのだ」と聞くと「小海つてところは海ではなく、ところの名前だよ」
▽山国の民話としての鯨の呆気にとられて顔を想像したとき、私は江戸小咄の海の鯨の話の中で思ひ出したのにこんなのがある。品川の猟師が集つて「此度とれた鯨の齢はいくつだらう」「まだ小さいから大かた六七才ぐらゐか」「イヤ〱それでもけふ見物が側へ来てこれはくさい〱といふた」寛政十年刊「松魚風月」にある。どんな話でもその土地によるカラーとか背景に独特な感じが掬みとれるものである。