九月

▽森雞牛子のことを本誌七月号に山本葉光さんが書き、本号でも佐藤秀太郎さんがその想ひ出を綴つてゐる。四月十七日が命日で今年は十三回忌にあたる。大阪の雞牛子と言へば、あまたある川柳雑誌のうちでも、その主宰する『三味線』の名は異色あるものであつた。
謄写版刷だつたが、なかなか美しい字で印刷されてゐた。内容は古句研究あり、随筆あり、創作あり、柳界展望あり、豊富なしかも魅力的な雑誌で、謄写版刷ながらこんなに綺麗に誤字も少くやれるものかと各号が待たれたことである。
▽私は乞はれるままに(上高地でかめろん)といふお色気ものを書いたことがあつた。遠くにゐても早耳で、私がどこの学校を出てどこの専門学校へ入つたかなどの経歴を知つてをつたのに驚いた。昭和十四年三月号から昭和十九年三月号の最後までを私のところで印刷してあげた。三味線草、川柳春秋、関西川柳学会会報、日本川柳学会会報と名前を次ぎ次ぎと戦争の熾烈に添つて変へていつた。
▽昭和十一年十一月号、十二月号、昭和十二年一月号、二月号の四冊が大阪の活版刷で、その後の活版刷は私のところで印刷したことになる。雑誌名を変へたことに就ては私の提言を受け入れての処置であつた。当時紙の統制がはげしくなつたので何かと私が智恵をつけた。
▽原稿は巻書き式ですばらしく長く、校正は朱をたくさん入れて、なほその上継ぎ足すほど周到にして厳密であつた。