3:現代川柳と古川柳

 川柳の如くにも見え、また俳句を模倣した如くにも見えるどつちつかずの、十七音律の現代川柳には独特なユーモアもなく、寸鐵人を刺す辛辣味も味へず、あの溌剌たる人情美もうかゞへないといふ意見に関して、果してこれは私たちの軽々しく受け応への出来る問題でありませうか。
 古川柳といふ通念は、正しい意味の川柳と、私たちが最も嫌ふ狂句を包括したものであることは否めません。古川柳が江戸時代の風格を知るうへに大きな貢献をもたらし、江戸文化を研究する資料となつてゐることも事實であります。たゞ私たちの関心すべきことは、所謂古川柳そのまゝの風格と奇警味を世襲してゆかねばならぬかといふことでありまして、その判斷のうえへに今後の川柳の意義と価値が存在してゆく筈です。
 現代川柳には殊更作為せんがためにする傾向があり〱と見えるともいひ、清心味がないから再び狂句時代に轉ずるのではあるまいかとも疑ひ、滑稽、皮肉、軽味を概念とするわれわれには如何にも喰ひ足りぬ無味乾燥な文字の羅列であると警められるのでありますが、やはりこれは現代に生きて現代の句を創作しようとする人間の忠實な態度と、ひとつの詩作に耽けるためにはひとゝきの觀照のうちに発想のこよなき雅遊のこゝろを昂揚するたゝずまひと思ひやりたがらぬからではないでせうか。
 なるほど私たちの川柳は滑稽そのものに成り難く、古川柳の概念からはほど遠い句境であるからと申して、今更に古川柳の鑄型にはまらねばならむわけはないと存じます。どうしてさう古川柳に固執して、現代川柳作家の創作態度を白眼視するのでせう。風俗資料としての古川柳の体臭に陶然として芬々たる環境を與へられてしまふからでせうか。現代川柳を味ふときには、現代に生きる人間の作つた十七音律に素直な鑑賞眼を注いでいたゞかねばなりません。
 古川柳を研究する学的な眞摯さに対しては、並々ならぬ敬意を拂はずにはゐられません。あの尨大なる古句を倦まず撓まず分類し解析してゆく仕業といふものは、實に驚嘆すべき努力であります。
 現代川柳と古川柳は各々時代的感覺に佇つことを知る所に意義があります。