九月

▲戦争が激しくなってから、印刷工員が次々と召集され、残ったものは中老、女性だけで何とか切り盛りを余儀なくされた。私もじっとしておれず、見習い手習いで印刷機を動かすことがしばしばだった。
▲町内の商店のなかには規模を縮小し、間口を狭くして何を商売しているのかと、いぶかるほどの寂れかただった。徴用のがれのためか、自分からすすんで消防員を志し、火の見やぐらの警備にあたり交代で鐘楼を上り下りしていた。
▲夢にも思わぬことが出来上がった。強制疎開の通告だった。まさか我が家の撤去などは露しら考えなかったのに実現されることが決まり、昭和二十年七月十五日限り長く住んでいた土地から離れねばならぬという。
▲困ったときの窮余の一策、あまり親類つきあいもなかった遠縁にすがり、郊外の農家の蚕室を借りることが出来たが、既に東京から実姉家族が疎開していたので、この行き先も考慮せねばならず、思いきって中学同級生に縋り、やはり空いていた蚕室を借りるまでに漕ぎつけた。
▲電話局、銀行周辺五十米範囲の民家が取り壊されるのである。当時土蔵や物置で迷彩をほどこせば難を免れる恩典があり、これだけは残存した。
▲親切にして下さる疎開先での生活が始まり、父も母も健在、私たち夫婦と三人の子供が、変わった環境のもとで、一日一日を大切に過ごした。父はある電気工事経営の代表者で、疎開した農家から毎日自転車で通勤、私は印刷物の注文を受けに飛び回り、同業者に委託して手数料を稼いだ。
▲一ケ月たったら終戦、父が勤先から早く帰って来、みんなに知らせた。父は若き日、日清日露戦役に従軍した体験から、この終戦のやるせなさを痛感して長大息。
▲暑い日盛りのセミの声、すすきの穂のゆらぐ秋のたたずまい、もみじ散る初冬を漫然と暮らしたのではなく、情報をいち早く取り運んで、その年のうちに土蔵に帰って来、父母は階下、私たち夫婦と子供は二階、三階は貯蔵品置場の再出発が始まる。みんな元気いっぱいだった。