八月

▼活字を一本一本拾って、並べるという仕事は、私のところで名刺印刷くらいになってしまった。組み置きの結婚披露状や葬儀通知状なんかも、活字を差し換えする段階ものだが、時期的のこともあって、毎日というわけにはいかないから、活字を死蔵しているみたいな状態といえばそうもいえる。
花柳界から小型の名刺の注文があって、いそいそと配達したのはもうとうの昔になった。
  妓の名刺刷って渡しに
         お出掛けか
 ワクワクした気持ちで花街あたりの昼下がり、私も若かったなあと思う。
▼もともと昭和二年に転業して印刷業になったのだが、経済恐慌期に父が決断したいきさつがある。
▼大手三―五―十三というのは新町名、大名町が旧名、明治維新までは武家屋敷の通りだった。土地を明け渡す武家から買い取って、ここに居を構えた。すぐそこに松本城がデンとある。
▼本丸の堀、その次の堀もいくつかあったが、町人の家々が繁盛するにつれ、本丸以外はだんだん埋め立てられてしまった。大正時代まだ残っていて、蓮の花が綺麗に咲いた近辺を遊びまわった思い出は消えぬ。土の香りが漂った。
▼私は二代目、印刷の業を継いで細々と暮らす。幾十人を使っている印刷工場は数少なく、零細に近いあきんどが殆んどである。写植機、現像機を購入したりして、時代に乗りそこねまいとしているのだが小じんまりした経営はなお続く。
▼同業者の声として番傘八月号に赤裸々な偽らなさを聞いたが、高坂照男さんの(商売も、川柳もいま私にとっては暗中模索そのものである)という切実な叫びは私にもあてはまる。藤井幸子さんは御主人とお二人で下請けにいそしんでおられ、昔はニッパチ(二月と八月は仕事が枯れる意味)といわれたが、昨今は年中の感じがすると告白しているのは、私にも納得にやぶさかでない。
▼  われを継ぐ子と寢る
     星の降るなかに
 こう詠ったその子もわれを継ぎ四十余歳。
   うつし世に流るるものを
     刷ってゆく