四月

▼「浅川征一郎君は元気かね」と塚越迷亭さんがお便りを寄こしたのは、戦後しばらくたってからのこと、全国浴場新聞を発行していたから、取材によく松本に来た。長野県浴場組合長が松本に在住しているので好都合のようだった。
迷亭さんは昭和十四年、台湾に渡り、まもなく台湾川柳社として「国性爺」を発行した。四六判横型。当時駐留していた兵士の、望郷の念を癒す溜まり場所だった。偶々浅川君が初年兵の辛さを訴え迷亭御夫妻の膝に縋るいきさつ。
▼郷里はどこだ、信州松本と答えた。石曽根を知っているか、よく存じておりますというわけで、殊更可愛いがられた。浅川君が復員して、早速このことを話しに来て下さったので、いい機会に懐旧談をやろうと持ち掛け、三人で一夜たのしい会合に恵まれた。
▼昭和三十八年に青森の東奥日報社主催の青森県川柳大会に招かれ「川柳と郷土」を講演の傍ら選者を引き受けた。この大会に推薦してくれたのはあとで聞いたところでは迷亭さん。ご本人からは直接話さず陰で取り持って戴いたことになる。人情厚い人だった。
青森駅にゆるやかに着く列車、手を振って迎えてくれた工藤甲吉さん。大変お世話になった。大会終って懇談会のとき、私は長野県上伊那出身の福沢といいますが、こちらの信用組合に勤めていますとなつかしそうに申し出た人。翌日、甲吉さんのご案内で十和田湖へ行く道すがら試験場に立ち寄りここに勤めている人を紹介して貰うと、旧松本高校在学中、市内日の出町穂刈学院に下宿していたと話された。いまもある。
▼その日の十和田湖は雨だった。のち乞われて「十和田湖吟遊」に
  雨ぞ降る十和田湖の名を
       求めゆく
のほか、東奥日報に掲載した。
上高地に遥々やって来た小林不浪人さんは「上高地の景観より十和田湖の方が荘大、とても比べものにならない」と嘯いた。「川柳塔」四月号、東野大八さんの「小林不浪人」を読むと昭和十九年青森市役所課長とあるからその頃観光視察で松本に寄ってくれたのだろうか。揮毫した色紙のうち
 貧にゐて子の素直さを淋しがり