二月
▽川柳忌ゆかりの大会だったと思うが、出席者の献句は川上三太郎さん、前田雀郎さんが順次詠んだ。会場で披講があったとき「君、ひとつ選をやれ」と雀郎さんの薦めがあって光栄に思った。
▽大会が終わったら熱海一泊ということが決まっていて、一同賑やかに繰り込んだ。部屋を行った来たりの交歓は例の如くで、そのとき川又花酔さんによりかかるようにして、「例の又右衛門を頼む」という需めが多かった。
初会客名前は荒木又右衛門
実に手馴れた筆で揮毫しておられた。岡本文弥さんの「芸流し人生流し」の(投込み寺)の項のなかで紹介しているが、花酔さんの
生まれては苦界死しては浄閑寺
は、私も古川柳探勝めぐりの集いに参加したとき、この寺に案内された。句碑として、荷風の詩碑と共に建つ。また近くの一葉館も参観できた。
▽伊予松山藩士の長男で、正岡子規門下の逸材、内藤鳴雪はひとに乞われて色紙や短冊に書くとき、つぶやくように「例の一系か」といって
元日や一系の天子不二の山
一系の天子と荒木又右衛門にはいかにも偽らぬ日本人の顔がある。
▽二月二十日は鳴雪忌。
草庵や心ばかりの鳴雪忌
無字
を短冊型に書いて、私の店のウインドに掲げた。それは二十日であった。
▽物を飾るのみでなく、季節に合わせてそれにふさわしい作品を鑑賞して貰おうというのが伜の発案で、この五十九年の初めには
正月やころりと寝たるとっとき着
一茶
にした。(とっとき着)は方言である。着飾るという意。
▽私の小さいときには母がトントンやっていたのを覚えているが
七種や似つかぬ草も打ちまじり
夏山
▽こちらは三九郎と言って、松飾りを焼く風習がつづく。
どんど焼避けて河原に雀群る
魚魯
掲出句は伜に一任、いまは
年寄りの腹立つ春の寒さかな
蕪村