五月

▽その頃、といっても昭和一ケタ時代だが、不定期で四六判八切りの新聞をよく引受けて印刷した。いまのタブロイド判である。これを妙に地方のお祭りの時期に発行する。祝五社祭典とか祝天神祭とか祝四柱神社大祭のタイトルの広告豊富な内容、記事はほんの添えもの程度だった。
▽「ヤア、出来たかね」元気よく様子を見に来る。「ちょっと二十枚ばかり見せてくれないか」渡すと感謝の意を表しながら、それを小脇にちょっとはさんで行く。
▽いまに残りを取りに来るだろうと待っているわけだが、それっきり姿を見せぬ。印刷代は貰っていないし、勿論手附金の約束もしなかったから全然パアとなる。
▽あとでわかったことだが、その二十枚だけで仕事をする。一枚一枚広告を出した商店に見せ、たしかに印刷したことを承知させて、広告代をせしめる。ウマウマと金をふところに、印刷所の方は敬遠してしまう。いわゆる新聞ゴロという手合いで、しばしばこの憂目に遭った。
▽こういうのばかりときまっておらず、キチンと割付けをし、版が出来ると自分で校正をする。無産新聞だが、非常に丁寧でからだつきは小柄、ちょび髭があった。父がこういう人に同情や理解を持っていたせいか、快く注文を受けたし、相手も信頼されたことを忘れないで、月末になると金を払いに来た。マサカリのようなかたちをしたシンボルマークが、記事のなかにカットで挿入されていた。
▽県内のある都市の書店から文芸雑誌の印刷を頼まれた。(女人文芸)がその雑誌名で、主に横田文子という人が健筆を揮っていたが、あるときこの女流作家の仲介で、東京の雑誌の印刷受注が廻って来た。左翼雑誌でいつもより部数が多く、おびただしい数字だったことを覚えている。
▽印刷完了で製本所へ持って行き出来上がり待つばかりだったが特高課に押収されたという電話がかかって来た。なにもかも無残にたたきつけられてしまった。
▽それと前後して津久井竜雄の流れを酌む若者が、序文まで書いて貰った詩集も、製本所で押収された。これは右翼ものだった。