十二月

△ことしは暖かい冬を迎えたということで、晴れた日曜日、忙しくならないうちにと思って、お墓詣りをした。陽当りのいい小高い丘にある墓たちは、みんなそれぞれの生い立ちと終の栖のおちつきを得て、安らかに眠っている。拒んだ眼をせず、迎え入れるいとしいまなざしを呉れるのである。
△喪中のご挨拶の葉書をいただいたなかに、来たるべき年は丁度自分の還暦にふさわしい五十三年であってほしいと言い添えられたものがあった。思えば亡き弟もやはり今生きていれば、この人と同じ歳である。茫々、既に三十五年の昔となった。二十六歳の若さで鬼籍に入った弟の俤をふりかえる。
△法律をやりたかった学生時代の希望は、病気のためあえなく挫折し、からだの弱さを感じてか、今度この世に生まれることがあるなら、医者になってみんなに奉仕したいと言った。かの片言隻句はきびしく、わが胸を痛ましめる。
   吹雪く夜は 汝がおくつきの
      白き見ゆ
 弟を弔ううたをいくつも作ったなかにある句。
△春彼岸とお盆と秋彼岸には家族ともども墓前にぬかずく。孫も一緒である。上のは小学校四年生、中のは幼稚園、下のは二歳。姉はテレビの画像の選別に一家言を持ち、姉さん振りを振り廻す。弟は画を書くことが好きで、奇想天外の題材が多く、本誌の表紙に登場している。妹は窓際の柵に乗ってはらはらさせ、「林檎が好きなのかそれとも蜜柑なの、どっちなの」と訊くと「あっち」と言って笑わし、三人至って元気である。
△墓域にちんまりとして小石が置かれている。姉の方が葬ってやったしるしである。弟の方はその頃知らなかったからで、しかし三人は一緒になって線香をたむけることを忘れない。それはこの欄でもしばしば話題としたわが愛犬の永眠の墓どころである。
△孫たちは人間の死とけものの死の判別にあまりこだわってはいないのだ。現実から喪失してゆくものへの別れが、幼い心にしみるからなのだろうかと思う。はらからと共にたまに訪れ、或る敬虔の念にひたれる静かな時の間がここにあるのである。