九月

乗鞍高原のとある旅宿で目が覚めた。夢ごこちに夜陰の雨を知ってはいたが、大したことはなく、屋根に少しの湿りが見られるほどだった。さすがあたりは山気がみなぎり、樹木の蒼さも目にさやかだった。白樺はこれから上に行くに従って高度にふさわしい容姿と変わるという。
△或る研修会の依頼で、話をすることになり、その前日、先方のハイヤーを駆って、久し振りに乗鞍岳の間近なところまで来たのである。毎日、わが家の窓から眺める乗鞍岳は西南に向かってデンと居据わり、その威容は夏近くまで雪が見える。消えるのが外の山より最も遅い。長塚節はいくつも詠んでいる。
△話になったとき、うんと若い娘さんや所帯を持った壮年の男のひとで、年齢の層がいくつもあるため、いと怪しげな話題はいさぎよく端折ることにした。そこんところを得意になって喋りたがるキッカケのつもりだったが、思いきるときはさっぱりするに限る。
△話が終り、薄暮のまま、山の気の迫るなかで、大きい鉄板にしつらえたバーベキューが、ものものしくはかどって威勢がよい。ビールを傾け、徳利が廻り、自慢の歌が飛び出す頃、賑やかな家族的な雰囲気が盛りあがってくる。
△そのうちのひとり、うちにある色紙の俳句を解して貰えないかというのである。それはこうだ。
   蝶の宿摘み残されし夏わらび
 民宿を経営していて、此頃泊まって下さった方だという。聞けばよくテレビに出るタレントである。短かいCMに洒落たやりとりをするのですぐピンと来た。
△文字通りに説明すればこうなのだと話してから、待てよ、もっと深い意味があるのではないかと考えた。
△蝶は華やかな世界にいるかりの名を自分にたとえる。ひと日、山深く、慰やすつもりでやって来て仮り寝の宿を求めた。少し遅れた夏わらびは、自分の齢を象徴するようである。そんな風にも思え、作者が蝶の姿でいたわっている心境か。
△少し酔いがさめた気持でこの句をもう一度くちずさみ、わらびの全くない晩夏の夜気を吸った。