九月

△むし暑い日がつづく。残暑が今年ほどきびしいのは記録的のようである。じりじりと汗がにじむ。でも朝夕はめっきり涼しくなったと感じる。日中、たしかに陽がやきつくが、夕方やっと開放されたほどの安堵さを覚えはする。新涼が間もないことを先き触れしてくれるのだろう。
△夕飯がすんで、みんなで語らいをし、テレビが掛けっ放しで流れているとき、ふっと夜風にあたりたい気持になって、私ひとり屋上に登ってゆく。いつもの雨ざらしの籐椅子にゆったり腰をおちつける。満天にあふれるような星というときがあるし、曇った空に、ほんのちょっぴり星がにぶく光っている宵もある。
△日本で一番澄んだ空は根室と松本だということを聞いたが、昼日中あんまり賞められた図ではなく汚れた排気ガスが充満して、けむったいような気がして来て、松本よやっぱりお前もかとあわれんでやる公害のこわさである。
△夜になっても汚れているのだろう。それがわからないで、私は夜空の奥深く、ひろがったおおらかさに酔う。酒に酔うとは違った味が私のからだを包むのである。静かで悠久の天地をほしいままにした気分で、来し方、行くすえを思いながら、ひと知れず感慨を動かしている。
△自分は何だろうかということ、ちっぽけな人間の意志が強くもなり、激しくなったりして、いろいろな境涯を生むことの宿命って何だろうかと。短いようで、また長くも思う人生のままならなさが、日常のなかでのたうち廻る不思議さどうでもいいことが顔を前の方に出したくて、それが結構図に乗ってしまう流れの変化、巻かれまいとして逃れるのを追って来た掌の大きさ、吠えるだけ吠えたあとでそのうえ警世めいた啖呵をほき出すむなしさ。
△西の方は日本アルプスだが、麓あたりに小さく灯が見える。人の住んでいるあたりが、そこでも何か考えているのだろう。いや、せっかちな、そんな道草を食わないで悠々と生きのあかしをかきたてているのかも知れない。しみったれた私、行き着く場所をまだ見つけず、いつまでも鼻たれ小僧だ。