三月

△五十、六十は鼻たれ小僧だといってけしかける。あれで八十いくつだと聞いてちょっと驚くような活躍振りを見せる人もいる。でもあんな若いのに、もう杖をついてヨボヨボ足の運びのわるい人が、ベンチに腰かけてただションボリ休んでいるところを見かけると、ぼやぼやしていられぬぞ、そう思う。
△久しぶりに会ってなつかしく、手を取らんばかりに嬉しいときがあるが、つくづく年を寄ったなと顔を眺めやる。朝、顔を洗って何となく鏡で眺めても、そんなに気付かないのが人情、そこへ行くと他人の顔というものは、前と違った印象にすぐ気付く。
△毎朝、見ている自分の顔は馴れているので、こんな顔かと見くびってしまうが、会った先方も、こいつ年を取ったなと考えているのだろう。まず以て元気でありたい。そんな思いがお互いの心のなかに流れる。それでいいのだ。若い者に負けるものか、そうはいかない。身体の方はいうことをきかないのである。
△いささかの晩酌で陶然となるときこうして家族一同みんながガヤガヤワヤワヤで、一日の休らいが出来ることはありがたいと思って、自分ながら嬉しい気分になるのである。こんなたあいのないことが嬉しいなんておかしいようでいて、そのおかしいことの出来ない人もあることを思うと、やっぱりこう思うことが純真なんだと自分に言い聞かそう。
△すると、上の女の方の孫が眠くなってむずかる。遊び疲れたせいだろう。早く夕飯をすませようとするが眠気が先きで、食気が後退と来るから始末に行かない。おばあちゃんが気をきかせて、隣の部屋にふとんを敷き、テレビを入れ、お出でお出でをする。茶の間のカラーとちがって黒のもいいものだといわんばかりに孫はノコノコと招じ入れられ、おばあちゃんと二人で横に寝そべって、しばしテレビと対面中。
△ボリュームを少くして眠気をさそい、画面の進展の何となく夢うつつに誘いこまれる頃、ついうとうとと眠りにおちてゆく。おばあちゃんはそっと抜け出すと思うだろうが、毎日の下の男の方の孫の守りでうんざりしているから、こっちもうとうととなるから不思議であり、正直なところか。こっちのおじいちゃんも眠りにゆくか。