五月

▽大掃除をしているとき、畳の下の新聞の記事につい気をとられ、縁側まで持って来て、ちょっと疲れているのをいいしおどきと、興味深げに読んでゆく。そんな漫画がサザエさんにあったと思う。興味深げにというより、なつかしいという方が当っているのかも知れない。
▽過ぎ去った日がふっと戻って来たように思われ、これさ、早く畳を上げて下さいよとたしなめられて、すごすごと古新聞から目を離すと、もうそれはきたない屑物としか見えないのである。
▽川柳を覚えてからいろいろの雑誌で育てられた。月極めで取り寄せたり、自分で雑誌を発行するようになってから、交換誌としていただいたものが集って来た。人に貸したり、また返って来たり、返らないものがあっても、友達のためになっていればそれでいいのだと安堵したりする。
▽埃っぽくならないようにとたまに払ってやるが、どうも怠りがちだ。すまない。兎角、居間よりも工場の方が優先で、部屋を片付けなければならない。居間を蚕食するのだ。雑誌の置いてあるところを整理してゆくと、遠いときのことがいままたかえって来て、なつかしくページを繰るのである。ただなつかしいだけで、それでいいのか、お前は生長したのか、雑誌から充分掬み取ったのか、自分の持つ主張は変らないのか、そんな問いがつめよる。これも齢のせいにしている。
▽ゴタゴタしているようで、ここぞと思うところへ手を入れると、さがしている雑誌がすっぽりと出てくる。雑誌が随分たまったね、こんなにどうするつもりなの、なんの為になるの、一体どうするつもり、そう問いかけられる。ここまで大切にしておいたのだ、もう少し待っていてくれ。
▽川柳呼称、非詩、叙景、時事吟、古川柳と新川柳などいろんな論争があった。小さく、目立たない自分たち勝ちの世界でも、時の流れはあったのだ。そういう流動をうず高く、埃っぽく積まれた雑誌からひきぬいていったら、どうだろう。いつも思うがその時間が自分にはいまのところない。可哀相だな、お前たちは。