三月

▽見知らぬひとが訪ねて来た。さて誰だろう。「私の顔を覚えているかい」と言つてにこにこ笑いかけるのである。思い出せないもどかしさ。首をかしげる。先方では知っていて、からかい気味だが、押しつけがましくはない。とうとう名乗ってくれて、何だ、おやそうかいと、今度はこちらがにこにこ笑いかける。
▽もう長い間逢わなかったひとである。随分、この町並も変ったがずっと前、つい近くに居住していて、松本城がこんなに整備されない頃だったから、その広場で朝早く野球をした仲間だった。早起きが励行され、青年たちがこぞって天守閣広場に集って打ち興じた。
▽このひとの振つたバットがどうしたはずみか、手からすべって飛んで来た。それが私の額のところをしたたか撃った。少しぐらついたと思ったら、眉のあたりが傷みはじめ、ポッカリ口を開いて、そこから血が吹き出した。仲間が驚いた。それ医者だ。幸、私の家の隣が外科医だったので、三針ほど縫って手当して貰った。
▽あのときはとんだ粗相をしてしまったね、昨日のことのように詫びてくれるのである。そんな三十幾年も前のことを思い出して話してゆくと、お互い歳をとったことには触れないで、なつかしがるのであった。「なつかしがるようではお仕舞だね」そんなふうにもその友達は言って、またにこにこするのである。
▽近くに住み、仲間づきあいをあのくらいしておったのに、ふいに逢っても思い出せなかったことはこちらの頭のわるさだが、それにしてもよく訪ねてくれたという懐旧の念にかられるのであった。若い日をこの家並のあたりに過ごしたことを振り返りたかったのだろう。このひとも変ったが、恐らく先方でも私が変ってしまったのに気づいたに違いない。
▽変ったということは何を意味するのだろうか。なつかしいという想いはどこから来るのだろうかといま静かに自分に聞いている。たまらなくいらいらする世相に巻き込まれがちな此頃の心境を洗い流すようなひとときに恵まれたのだと思ったりする。ここにひとりの人間の自由さがあるのだろう。