一月

▽一月十八日の東京は割合暖い日であつた。わざ〱電話で教えてくれた渡辺蓮夫さんのおつしやる通り、新宿で地下鉄に乗つて、中野の宝仙寺に赴いた。この日は、川上三太郎さんの葬儀の営まれる哀惜の日である。
▽予ねて臥床とお聞きして、一時小康を保つていたのに、遂に旧臘二十六日に心筋梗塞で逝くなられた。惜しい極みである。柳界にとつて堪えがたい悲しみであつた。押しつまつた師走の空は、めつきり老い込んだことだつたろう。
▽葬儀のあと、川柳研究の幹事会が開かれるから、是非一月号を問に合わせてほしい旨が、前々から伝えられて来たので、無理をしてこの日抱えて行つたのである。渡してほつとした。
▽長野県からは上田市の清水春蛙さんが川崎市に嫁がれている娘さんとご一緒だつたし、横川晴子さんの顔も見えた。お寺を背に写真をとつていただいた。幹事の藤沢三春君ともお逢い出米た。三春君は松本から上京、しばらくして川柳研究の幹事に推輓された。
綺羅星のごとく、全国各地から参集、偉大なこのひとの死を悼む人たちの顔がきびしかつた。大きな遺影が私たちを見つめていた。七十七歳の生涯をしみ〲思つたのである。
▽東京と松本に離れていて始終接し得られる間柄ではなかつたし、たまに大会などで久濶を叙すほどの浅い逢瀬ではあつた。毎月の句会にその声咳にふれた東京の人たちは収穫であつた筈である。
▽晩年は川柳研究の編集を渡辺蓮夫さんにまかされてしまつた。「僕は作家なんだよ、これから作るんだ」とお便りをいただいたことがあつた。心を衝たれた。蓮夫さんの手に渡る前は、自分で編集し、原稿を私の手元に送られた。たまに順付の手違いはあつて、電話で打ち合せしてとりつくろつたが、殆どといつてよいほど狂いはなかつた。いつかどこかで書いたように、三太郎さんの近作は私が一番初めに見ることが出来ると、緊張して封を切つたものである。
▽人情味のあふれるうたのかずかずであつた。からだからぶつつけてゆく論客であつた。今はもうこのひとはいない。