十二月

▽病院から屡々便りを寄こした。来年はまた孫が生まれるというたのしさを伝えてくれた。その阿部佐保蘭君が十二月十六日に逝くなつた。惜しい友人である。四つ歳上の兄貴であつた。
▽娘の主人が大町市昭和電工に勤められていた頃、録音機を持つて孫の声をテープに採つておきたいと、道すがら松本の私の家に訪ねて下さつた。わくわくしているみたいであつた。佐保蘭君は何か残しておきたいという念願をつねに持つていたようである。大勢の自選十句をテープにし、これを複製して心ある同志に頒けていた。
▽いつだつたか、伊藤瑤天さんと打ち合わせて、佐保蘭君のお家を訪問したとき、私は十句を吹込まされた。なかなか操作は手馴れていた。瑤天さんもそのとき、自分の句をテープに採つていたようだ。
▽池口呑歩君が主唱した川柳の集りに選者として上京した折、佐保蘭君と一しよに出席、その帰りに岡田甫さんと三人でハイヤーに乗り、岡田さんの行きつけの、でかいが、とても田舎つぽい新宿のビヤホールで呑んだ。佐保蘭君はもともと人好き合いがよい方だからこのときもまわりのひととすぐ仲よくなつて、パツパツとカメラを向けて写していた。
▽「川柳と飜訳」を世に問うた。自慢だつた。昭和七、八年頃だつたか、松本高等学校(いまの信州大学人文学部)のドイツ語のツアッェルト教授にどうしても会いたいというので私が官舎に一しよに案内した。飜訳のことであつた。熱心だナアとそのとき思つた。
▽佐保蘭君は
 鶴の姿の明け方となつてゐる
という句をよく揮毫した。そして自分から無造作に配つた。私は半折と色紙で所蔵している。句集の書名「鶴の姿」はこの句からとつたものだ。
▽佐保蘭君とは私が川柳を覚えた直後から知り合いになつた。川柳雑誌を通じてのうえだろう。大阪の朝田新水さんという人と三人で玉の井を見て廻つた。新水さんとはコレクト趣味で長くつき合つた。
▽川柳レコードや川柳ネクタイ、川柳浴衣を発案したが、佐保蘭君の思い出につながる資料である。