十二月

▽東京の伊藤瑤天さんの紹介名刺も持つた青年が訪ねて来たというが、さてなんだろう。そのとき私は町内の会合で留守だつたが、連絡が入つて家に戻つた。夏の真盛り、だが夕方近くである。事務所でしばらく待つていてくれた青年に会つた。用件を聞くと、歓楽街めぐりを連載している新聞のルポのために、地方を廻つて松本の取材に当つたが、その案内を頼むという話である。
▽うつてつけのようでもあり、気はずかしいようで少しとまどつたが、いいところを見せたいばつかりに引受けた。話がわかればこつちのもの。奥の座敷に通して家内を交え雑談。聞き上手が揃い、そこは抜け目なくうかがつているうちに、私の甥と同じような学生生活を送つたことを知つた。海兵に入学してこれからというところを終戦、どこへも学校に行けずブラブラしているうちに、何となく漫画家のハシクレになつた。性格でひとりぽつちを愛するという。孤独ナンテ自称詩人の殺し文句ではなかつたのがゆかしかつた。
▽その夜、ハイヤーを駆つて松本の歓楽街をつぶさに案内した。クルマから見る灯のいろのなかに佇むおんなの哀しい微笑が、こんなに美しいものかとそのとき若い青年と並んで年甲斐もなく心をふるわせた。運チヤンにキワドイ急所をさぐつているこの若者の横顔は真剣であると見た。
▽翌朝、また訪ねてくれた。いつの日か、独自な主人公を生み出して世に問いたいという抱負を語つてくれ、頼もしいなあと妻と一しよに前途を祝福した。
▽年賀状はそれからキチンキチンと届いた。昭和三十四年の春、私家版「ほのぼの君」が贈られた。どのページにも犬が登場して愛嬌をふりまいている。私の愛犬の気持をも掬んでいるようで、それが嬉しかつた。
▽それから今年の暮に、朝日新聞社刊「ほのぼのおじさん」をとどけてくれた。いよいよ精進を続けておられる。漫画家であると共にカーマニヤであることを週刊誌や新聞で知つていた。あの鳥の飛んでいる詩情こまやかな画がこの人であるレツテルはもうきまつた。それは佃公彦君である。