八月

▽自分の齢のことは棚に上げて、何てまあみんなよぼよぼしてしまつたことだろうと思い、いつまでも若いつもりでいるのは愛嬌がある。その癖、老眼鏡をずり落しそうにして、新聞で新しい薬の効用に目をしよぼつかせるのである。どんな考えでいるのか、しのびよる齢の波のまにまに何かしらすがりたいような気分で、あがくでもなく、幻を追いたがる。
▽齢の喜びというものにかまけることが出来ず、いちずに負けん気で事に当ろうとしても、さて憎たげに可能な枠がきまつていて、冷やかにはね返つて来るのを知るとしてやられたと苦笑いして腰をたたくことにもなろう。
▽そこへゆくとわが愛犬は、腰もたゝかず、しよんぼりと鎖につながれたまゝで、雨の降る日も、太陽が灼きつく日も、所在なくわが家のしとねにうずくまつてばかりいる。たしかに可哀そうだなあと思い、たまには外へ出して散歩させてやるが、戻つて来ればやはり囹圄の身になるのである。しおしおと首を垂れて横たわる。
▽寝静まつた夜中に物音がすれば警戒警報の一声を挙げてくれる。
「滑稽発句類題集恋部」に
  寝てからの聞耳枕二寸あげ
 好奇も手伝つた本意はわが愛犬にはないのだろう。野暮といえば野暮だが、たゞ無精に吠えたくなる真意を買つてやりたい。本性だろうが、それだから家人は安らかな夢をむさぼることが出来る。
▽随分老女のはなつた。でもしよぼしよぼした眼ではない。美しく残んの香をたゝえた毛のふくよかさは失わない。「末摘花四篇」に
 多くの中でこなさんの子を孕み
 こんな厳粛な過去のいくつかを経て来た彼女であるが、遠い夢ごこちでおのがからだをかい抱きながら、よしなき寄る辺を去つた日に求めているのかも知れない。
清少納言の「枕草紙」には
  女は己をよろこぶ者のために
  かほづくりす。
 そうした時期になると、ほんとうに美しいかんばせになる。見違えるように毛並を豊かさを増す。前肢でしきりにわが唾液を顔に塗る仕草がしおらしいのである。そんな過ぎし日をこちらも思い出してやりながら頭を撫ぜてやる。