十一、十二月

▽よほどのときでない限り、うちのお風呂で間に合わす。あんまり入浴するのが好きでなく、自分の気持ちにうまくタイミングしないと、家の者が入つても自分は入らない。わがままなひとだよと言うのを聞きながら、蒲団のなかで首だけ出して知らん顔したつもりで本を読んでいることもある。
▽街の風呂屋に行つても烏の行水と自認しているだけに出るのも早い。私のせつかちなのを見ていてどうにか私より早く出たいと、私が知らぬ間に敵意を感じながら、大いに意気を揚がらせたつもりの相手をアツと言わせるまでに私の入浴時間は短いようである。ライバルがいたことはちと嬉しいが、しげ〱見られたとわかると、この痩せたからだがほんにいとしくなるというもの。
▽「釣銭を取る手が女湯を覗き」うちの女性作家木戸岡由湖さんの作だが、自分の側を言わないで、見られた自分の経験をうまく生かし、実感こもつた作品として話題を賑わしたことがある。女湯と言えば、何を話しているのか番台と向き合いながら、あらぬ方向に目を注いでいるひとがある。自分はとてもそんな心臓はないが、ちらつと見るくらいな好奇心はあるようである。でも、それがすぐに好色性につながるかどうかは知らない。まるつきり背景は違うが、裸を見るのなら掘つ立て小屋のストリツプに銭を払つて堂々と見入る開放性を私は愛するのである。
▽脱衣籠にまず足袋をぬいでぽいつと入れる。何の気もなく入れた途端、裏返しになつていると始末が悪いことがある。私の親指の爪は上向いて、無精で切るのを忘れているものだから、いきおい足袋のその部分に穴があいてくる。そんなのは小さいが、底の方はでつかくあいて、これでは面の皮は厚くならないで、足の皮が厚くなるにきまつている。ぽいつと入れたら裏返しに、それもふたつとも、めざましい顔つきで開つ放しだ。何とまあ履き盡された足袋だと自分は思うが、入浴者に見られると気が引けるものだから、足袋に限つて慎重に、さも大事そうに、さいころを振るみたいなはしたなさを戒め、きちんと表向きに揃えて置くことにした。