二、三月

▽二月十二日に松本市神道会館で一志茂樹氏学位受領の記念会が行われた。嘗て小学校に教鞭をとられたことがあつただけに、そうした関係の人達が大部分で、なかに郷土研究家や私のような物好きなものが集つて、一志さんの喜びを共に頒け合つた。
▽一志さんは松本市立開智小学校(旧臘十六日重要文化財に指定)校長を最後に教壇を去り、松本市立博物館長を経て、専ら郷土研究誌「信濃」を発行、愈々精進せられているのである。
▽「信濃」と「しなの」では漢字と仮名の違いで、耳で聞いただけならばちよつと親類のような感じを与えるが、「信濃」は堂々たる論文と研究が誌面にあふれ、それがそのまゝ性格、抱負を如実に物語つていることになる。柳多留拾遺二編に
論語よみ思案の外のかなをかきというのがあるが、「信濃」「しなの」を取り合わせて見ても決してこの句に該当することは出来ない。句もまた別なものへの痛烈なる批判であることは尚更である。「信濃」が着実に郷土研究に孜々として倦まない姿は、ありのまゝこの漢字が象徴しているように思われてならない。
▽記念会では講演会があつて、私は久し振りに学術的発表が聞けて日頃の多忙の身を洗われた歓びを味わつた。一志氏の学位論文「古代東山道研究の概要」では地方にいて如何に資料蒐集に困難を来たしたか、しかしやろうと思えばやれるのだという自信を得たと述べ国学院大学教授文博大場磐雄氏の「柴宮銅鐸」は(その信濃古代文化に及ぼした意義)の副題があつて、塩尻市大門で発掘された銅鐸の老古学的な意味合いを語つた。わが(大空)に異彩を放つ上松仙太君はこゝの学生である。
▽同人所典夫君の令兄である徳川林政史研究所主任文博所三男氏の「松本藩成立の過程」ではつぶさに藩主の小学校の教え子である東京大学教授文博宝月圭吾氏は「中世の桝から近世の桝へ」を講述したが、つい最近まで用いられていた一升というあの桝の研究で、これが一番私たち川柳家には身近な触れようで睡気を催さなかつた。