焼き芋

 近所に青果屋さんがあって、出回る頃になると忘れずにサツマ芋を一俵届けてくれました。どこの家庭でもそうですが、ご多分にもれず私の母も大好物でした。すぐに蒸して今年の出来はどうかな、とみんなで賞味しました。
 「氷」と藍地に白抜きの幟【のぼり】を夏空にはためかせていたお店が、晩秋になるとあんどんを店先に据えて焼き芋屋に早変わりします。いよいよ寒い季節に入る前ぶれです。
 サツマ芋は中南米が原産で、イスパニヤに入ってヨーロッパに広がり、慶長十三年中国大陸から琉球に、そして薩摩におよびます。享保年中、青木昆陽が江戸へ広め、各地に栽植を奨励して盛んになりました。「唐芋」「琉球芋」「薩摩芋」などの和名はそのまま伝来の道筋をあらわしているわけです。
 青木昆陽は江戸新橋の魚問屋を営んでいましたが、学究肌で商売を嫌い、のち儒者になりました。どうして学者になりましたかと尋ねますと「商売しておれば儲かるのはいいが、相撲取りにまわしの寄付を強いられたり、また役者に幕を贈ったり、なにやかやわずらわしいことが多くて困りました。いまこうしてわび住まいですが、けっこう気楽で居心地がよいです」と答えました。サツマ芋を普及した功によって甘藷先生と呼ばれたのは有名です。
 焼き芋の始まりは、寛政五年、江戸本郷四丁目にほうろく焼きができたときで蒸し焼きでした。看板に「八里半」と書いたあんどんを出しました。栗(九里)にも近いうまい味だーというシャレなのです。またアイデアマンはいたとみえて、小石川白山に「十三里半」と書いたあんどんを出しアッといわせました。それは栗(九里)より(四里)うまいというユーモアです。
 「いと高らかに鳴らしけり」のあのガスは、もともと含水炭素の発酵で、蛋白質の腐敗と違いそんなに臭くないし、健康のしるしであるーと生理学的理論を聞きますが、ご家庭の被害は軽微でしょうか。
 屋台に備えつけた釜に小石を敷いてまるのままの石焼き芋が、売り声も高く庶民の暮らしのなかにノスタルジアを流しながら、きょうも通ります。
  焼き芋へ女ばかりの座りぐせ   八千丸